●各駅停車の二十世紀(1)
【ドレフュス事件/H・アレント「全体主義の起源」(1)・第4章より】(川上 徹)
国民の多くが金儲けに狂奔した果てにその夢が破れ、五十万を超える中産階級が一夜にして一文無しに転落した荒涼を背景にその事件は進行した。
金儲けに熱中したのは、植民地事業への投資の見返りを期待した小金持ちばかりではなかった。国家機構を利用して国民から金を巻き上げ私腹を肥したのは、この国の政治家、議員たち、そして官僚、更にはスキャンダルをタネに議員たちをゆすってひと儲けを企んだ新聞界、要するに徒党に分裂したフランス共和政そのものであった。スキャンダルの連続と破産の大波の中から、社会は大量のモップを生み出した。モップは、自分たちが代表されていない議会を憎み、そして自分たちを締めだした社会を憎んだ。
彼らの凶暴な憎しみを煽り、組織し、方向を与えたものは、減びつつある古い社会の基盤に依って立ち、共和政にひと泡吹かせようとチャンスを狙っていた軍とカソリック教会の勢力であった。そして彼らの標的となったのが、「いけにえ」としてのユダヤ人将校ドレフュスである。事件の顛末は、そのドレフュスの無罪が白日のもとに明らかになった時点においてなお、フランス共和政は一個の人間に下された誤判を正すことさえ出来ないことを証明した。この国の体内で発酵していた凶暴性は二十世紀そのものの持つ凶暴性である。
この事件は、その後各国で姿を現すいくつかの相貌をくっきりと描き出していた。従って、二十世紀を各駅停車で素描するためには、始発駅はハンナ。アレントの「ドレフュス事件」がふさわしい。事件は二つの世紀にまたがって展開した。
一般に「ドレフュス事件」と言われているものは、ユダヤ人将校として初めてフランス軍参謀本部入りしたドレフュスが、一八九四年、ドイツに機密情報を流していた嫌疑で逮捕され軍事裁判で終身流刑として悪魔島に流された事件とされ、歴史的には、隣国ドイツとの抗争の中でフランス軍部が台頭し、反ユダヤ主義の高まりの契機として位置づけられている。ドレフュス個人にふりかかった運命を辿ってみれば、それは実に転変止まぬものであった。
処分が確定したのち、参謀本部情報部長ピカール大佐が、実は同僚のエストラジー少佐こそが有罪であることを打ち明けた。未だに謎は多いが、その後、ドレフュスの無罪を証明する新証拠が次々と提出され、判決は誤判であることが次第に明らかになっていった、九七年末、クレマンソーはドレフュス擁護の論陣をはり、エミール・ゾラが「私は糾弾する」とそれに続いた。軍部に組織されたモップ、熱狂的な反ユダヤ主義者たちは街頭に出てドレフュス擁護派を襲った。ドレフュス派と反ドレフュス派の激しい闘いの中で、ゾラは参謀本部誹謗の罪で有罪となる一方、ピカールは逮捕され、翌年八月エストラジ-は免官され自分が有罪であることを認めた。
にもかかわらず、反ユダヤ主義の熱病は国中を覆っていた。一人の人間を「始末」してしまうためには、一七八九年の「人権宣言」など、もうどうでもよかった。むしろ、モスクワからニューヨークまで、世紀末の世界の方が敏感であった。窒息の危機にある「法の前の平等」の理念に対して救援の声を挙げた。一九〇〇年「パリ万博」の開催が危ぶまれる事態となった。九九年九月に開かれた再審で、ドレフュスは情状酌量禁固十年に減刑され、その一週間後、今度は大統領特赦で釈放された。そしてその年の暮れ、大赦によってドレフュス事件は「終止符」を打たれることになる。一九〇六年、クレマンソー内閣の発足と同時に再審は開始されるが、そこでも、「無罪」を下すことは裁判機構上「権限」がないとされ、ついに暖味なまま終わった。あれほど国中を覆った反ユダヤ主義の嵐に対しても理性的なケリをつけることはできなかった。一九〇九年、ドレフュスは暴漢に襲われるが、暴漢は無罪となった。
一人の人間の誤判を正すことさえできない共和政と民主主義。H・アレントは「ドレフュス事件」の真の出発点をパナマ運河疑獄事件とする。
フェルシナン・ド・レセップスの名声は、一八六九年、スエズ運河の開通に成功したときから世界中に鳴り響いていた。国民が期待したものは、次は太平洋と大西洋を結ぶ。パナマ運河の開設であった。一八七九年、彼を代表とする。パナマ運河会社が設立され、翌年から工事が姶まった。しかし、工事は難関に続く難関でたちまち資金難に陥った。会社は、その度に政府と議会に対して社債の発行を認可してくれるよう工作し、それに成功した。レセップスは、認可をスムーズにすすめるために、議員の過半数、官僚の全部、新聞界の半数以上を完全に買収していたのである。運河建設の現場では、開通など殆ど絶望的であったにもかかわらず、国民は甘い幻想を抱かされ続け、社債を買った。運河会社は各新聞社に対して途方もない金額の「広告費」を払った。それに対する新聞界の御礼は「記事」を書くことであった。また、一獲千金を夢みる男たちにとって金儲けのいちばん近道は議員になることであった。政治が商売となった。議員は、自分を選出してくれたグループに、国家から特権を引き出しこれを貢ぐことが仕事となった。そして党派の違いによって「論争」はしても、自分たちのこの秘密についてはかばいあった。自由が「自由競争」に、平等が腐敗に、友愛が徒党の目くばせになった。
こうしてパナマ運河会社の社債発行は完全に国家的詐欺になりはてていた。一八八八年、開通祝賀式を開催する予定であったこの年、会社はついに行き詰まり、翌八九年破産宣告された、工事期間中の八年間に、社債として国民から引き出した金は十三億三五〇〇万フランにのぼった。会社の破産ととともに五十万の中産階級の生活が破綻した。ドレフュスが逮捕されるわずか五年前のことである。疑獄事件の裁判が姶まり、何人もの国会議員が喚問され追及されたが、長い裁判が終わってみると(一九〇三年)、政治家で有罪となったのは、工事期間中の元建設大臣一人であった。「洪の前の平等」も「法治国家」も、誰からも信用されなくなった。ドレフュス大赦の三年後である。議員が商人であり、互いに「自由競争」していても、この特殊な商人は自分達の共通の利害に関してはかばいあうものであることを、国民はよく理解した。腐敗した共和政に対して、噴出先のない憎しみが国民の中で、社会からはじきとばされたモップの中で発酵していった。
パナマ運河疑獄事件が明らかにしたもう一つのことは、運河会社という私的事業と国家機構の斡旋をユダヤ人が独占している、という事実であった。
パナマ運河会社が議員や官僚を買収した際の金の配分を担ったのは、ジャーク・レーナックとコルネリウス・エルツという名の二人のユダヤ人であった。彼ら同士は互いに悪事をタネにゆすりあう関係であったが、一大疑獄事件に発展したその端緒は、そのうちの一人が自分だけの免罪を条件に、収賄議員の一覧名簿を新聞に譲り渡したことから始まった。結局は彼ら自身が「いけにえ」の役目を負わされることとなり、「国の経済・政治を牛耳っているユダヤ人」に対する憎しみの火がついたのであるが。
共和政(民主政)においては、各政党・党派の政策とは、出身基盤の人々の利益追及が本質であり、その手段は買収であった。その際、金融界でありあまる金を持ったユダヤ人が役にたった。彼らは、国家機構と実業界の間にあるあらゆる隙間に入り込み、腐敗しきった社会のアリバイとしての「手段」の役割を果していたのである。全ての政党がそうしたユダヤ人を抱えていた。そして議員たちは、自分の身に危険が及ぶやいなや、それらの徒党を「敵」の前に差しだした。
国家的詐欺事件の果てに生み出されたフランスのモップ。彼らの憎しみの対象としては、ユダヤ人が最適であった。ユダヤ人は社会に「許容」されているように見えた。そしてユダヤ人はそれまで、議会と官僚、つまり「国家」に守られていた。あらゆる既成の権威を敵とするモップの心情にとって、ユダヤ人は格好の「敵」になった。モップは選ぶことができない。深く考えることもできない。喝采するか、投石するかしかできない。彼らはプロレタリアートではない。彼らは、ありとあらゆる階級・階層からの脱落者であった。ユダヤ人でしかも陸軍参謀本部にまで入り込んだドレフュスを、全てのユダヤ人を血祭りにあげよ、と叫んだ街頭の暴漢たちは、軍部に組織されたそのようなモップであった。
共和政(民主政)においては、各政党・党派の政策とは、出身基盤の人々の利益追及が本質であり、その手段は買収であった。その際、金融界でありあまる金を持ったユダヤ人が役にたった。彼らは、国家機構と実業界の間にあるあらゆる隙間に入り込み、腐敗しきった社会のアリバイとしての「手段」の役割を果していたのである。全ての政党がそうしたユダヤ人を抱えていた。そして議員たちは、自分の身に危険が及ぶやいなや、それらの徒党を「敵」の前に差しだした。
国家的詐欺事件の果てに生み出されたフランスのモップ。彼らの憎しみの対象としては、ユダヤ人が最適であった。ユダヤ人は社会に「許容」されているように見えた。そしてユダヤ人はそれまで、議会と官僚、つまり「国家」に守られていた。あらゆる既成の権威を敵とするモップの心情にとって、ユダヤ人は格好の「敵」になった。モップは選ぶことができない。深く考えることもできない。喝采するか、投石するかしかできない。彼らはプロレタリアートではない。彼らは、ありとあらゆる階級・階層からの脱落者であった。ユダヤ人でしかも陸軍参謀本部にまで入り込んだドレフュスを、全てのユダヤ人を血祭りにあげよ、と叫んだ街頭の暴漢たちは、軍部に組織されたそのようなモップであった。
こうして、あるカテゴリーの人間が法の保護を奪われようとしているときに、モップのみならず国民の大きな部分が、よくて「無関心」を表明していたのである。
しかし、「人権宣言」の母国フランスの事態を世界は注目していた。このままでは一九〇〇年春に予定されている「パリ万博」の開催自体が危ぷまれることとなった。すると議会は三分の二の多数で反ドレフュス内閣をあっさりと不信任した。その二か月後、ドレフュスの溝状酌量が決まるのである。新内閣には、ヨーロッバで最初の社会主義者が入閣した日一九〇〇年四月、万国博が成功を収めた。すると、議会はその翌月、手の平を返したように今度は四二五対六〇の圧倒的大差で「再審継続反対」を決議したのである。
経済的利得に盲目となった国民と、それ敬に姑息に「外圧」を避けようとした議員や政治家と、理性を失った反ユダヤ主義と、それを凶暴な暴力として実現したモップの跳梁と、幾つもの力学の作用の中で、一人の人間の運命に象徴される正義は、まるで玩具のように弄ばれたのであった。誤判を誤判としてキッパリとケリをつけることはついに出来なかったのである。
クレマンソーは、全ての人が「ウィ」と言い、そう言うことが強制されている時に、敢えて頭を上げて「ノン」と言った人、それがエミール・ゾラであったと讃えている。たしかに、民衆のパトスに直接訴えかけたゾラの熱情は、沈黙を強いられていた少なからぬ人々の良心を刺激し、彼らの立ち上がりを促す力となった。しかし、同時にクレマンソーは、民衆を、それが多数であるからといって「神の座」に据えようとすることの危険性を警告した。事実、大きな流れで見たとき、主として街頭を支配し、議会をその都度左右したものは、盲目でありつつ利に聡い危険な民衆そのものであり、ドレフュス派は彼らの中でついに多数派になることはなかった。一個の人間の理不尽な抹殺は断じて許さない、とする原理そのものによって立つ人間の精神は、この事件の中で一瞬の輝きを示したに過ぎなかった。
では、輝きを体現したドレフュス派とはいったい何者であったのか。この問いに対して、H・アレントは答えている。「ドレフュス振は一度も統一ある社会的グループを形成せず、一つの政党に結束したこともなかった。…たった一回の闘争において団結した人々は、翌日はもうそれぞれ異なる道を行くだろう。…彼らは世界観的あるいは社会的には共通するものをほとんど持っていなかったからである」。彼らはフランス社会の中にある、ありとあらゆる階層、グループ、政党などの中にいる小数派であった。それ自身の中に異質的なものをいくらでも含み込んでいる小数派がドレフュス派であった。真に「公共の事柄(レス・プブリカ)」が危急のとき「一切の社会的また政党政治的な罵東から脱することができた市民たちは、人民の真の姿をあらわしていた」。