●各駅停車の二十世紀(2)
【デルスウ・ウザーラ/アルセーニェフ著・長谷川四郎訳】(川上 徹)
沿海州調査の命を帯びた若きロシア軍士官アルセーニエフが、デルスウらの協力を得て果たすことのできたこの記録を、一九四一年、当時満鉄に勤務していた長谷川四郎が翻訳した。長谷川はその三年後軍隊に召集され、敗戦後、シベリア抑留生活の後に帰国した。帰国時に身に携えていたものは、この訳稿ぐらいではなかったか、と言われる。晩年、彼は本書を回想して、自分の訳業のうちで最良のものだと言っていたという。文明は進みに進み画一化していくが、デルスウの側にこそ「道徳的により高い精神が生きて」いたのだと。さらに、そのデルスウたちを減ぼした者どもが彼らに捧げる挽歌こそがこの本だと。原住民は非業の死を遂げた。(長谷川四郎『鶴』巻末の「作家案内」より)
シベリアの少数民族についてふれた記録は「デルスウ・ウザーラ」以前にも無かったわけではない。アルセーニエフが極東・ウラジオストックに赴任(一八九九年)する九年前、未だシベリア鉄道の起工されていない頃、チェーホフは馬車と荷車を乗り継いでシベリアを横断し樺太に渡った。その記録には、政治犯をはじめ社会から追放されたありとあら畦る「犯罪人」たちが、兵士に挟まれ手かせを引きずりながら列を組んで歩いていく姿が描かれている。ロシア社会での失敗者たち、移住民たちの暗欝な行列。そこには、家財道具とがらくたをいっぱい詰めた袋を担いだ両親に手を引かれ、ぼろを纏っって歩く子どもたちの群があった。たどり着いた樺太流刑地での彼らの生活。ロシア社会が必要とした「人間の捨て場・隔離場」としての樺太についての詳細な調査記録(チェーホフ「サハリン島」「シベリアヘの旅」)。そこには、シベリアや樺太が「人間の捨て場」になってしまうずっと以前からそこに住み、生活しつづけてきた原住民たちについての「言及」はある。ギリヤーク、アイヌたちの生活についての詳しい調査も、記録の重要な一部をなしていることもたしかだ。そして、そうした調査は、チェーホフ以前にもクルゼンシテルンなど幾人もの探検家たちの手によって残されてはいる。だが、それらは、進出・侵略する「文明」の側からの「未開」の発見であり、進出すべき「対象」の調査ではなかったか。「発見」とは(「発見」されたものの固有の「過去」に対する)「忘却のシステム」(ミラン・クンデラ)である。
アルセーニエフは、デルスウらと艱難辛苦を共にし、幾度か生命を救われる体験を通じて、彼らの内側の精神世界に分け行って観察し、彼らの信頼を得ることができた。その結果、デルスウらの中に、自分たちに比べて「道徳的により高い精神」を発見したのであった。そして、デルスウの死と、さらにその数年後の現場の風景までも描写することによって、デルスウを追い詰めていったものがなんであったかを明らかにした。
一九〇一年、二十世紀初頭のこの年、シベリア鉄道がハバロフスクまで開通し、その翌年、それはウラジオストックまで延長された。沿海地方は急に騒がしくなった。シホテアリニの全地帯に豊富な地下資源が内包されているらしいということで、ロシア、ドイツ、イギリス、アメリカ、フランス等のほか日本からも、鉱山の権威者や地質学者たちがやって来た。ウラジオストックの街には「ジギト湾では金が採れる」という噂が流れた。各地から一投千金を狙う山師たちが流れ込んできた。一九〇四年、日露戦争が勃発した。また、それよりずっと以前から、地続きの南や西からは朝鮮人や中国人もやって来ていた。彼らは木材資源を権保するために森林を乱伐し、クロテンやジャコウジカの毛皮を求めて、野性動物を乱獲した。またたくうちに原住民たちの生活は難しくなっていった。森の火事がよくおこるようになり、動物たちは遠ざかり、野獣たちも少なくなっていった。中国人は原住民のウデヘが捕獲するクロテンを騙し取った。ウデヘが捕獲数をごまかすと拷問を加えた。そんな繰り返しの過程でウデヘの人間が悪くなっていき、彼らの生来の誠実さが失われていった。
そんななかで、アルセーニエフらの一行は、未だ文明が充分には分け行っていない地域への探検行を開始した。一九〇七年の五月、ウラジオストックを出発した。そして、沿海州沿岸を北上し、その北端から内陸に入り、シホテアリニを越えウラジオとハバロフスクの中間の町ビギンまで。ほぼ半年に及ぶ遠征であった。アルセーニエフは、行く先々の気候、地理、民俗を詳細に記録する。様々な動植物の南限、北限が生き生きと描かれる。恐らくこれらの記録は、歴史的には、地球上にくまなく文明が浸透していく際の貴重な「資料」としても役立ったに違いない。また、ロシア帝国が全シベリアを征服していくにあたっての水先案内の役割を果たしたことであろう。しかし、アルセーニエフの眼は、自然の猛威に対して共に苦労する過程を通じて、「デルスウの世界」を発見し、そして敬意を込めてそれを記録したのであった。
デルスウは、すべてのものをヒト(人)と呼んだ。熊はずるいヒトだ。蜜蜂がせっかく貯めた蜜を横取りしてしまう。野営地の周囲を徘徊する虎に、デルスウは呼びかける。テントにはたくさんの兵隊がいるぞ、鉄砲で撃たれたくなけれぱあっちへ行け。撃たれても知らないぞ。立ち込めた霧をさして、デルスウは「このヒトは迷っている」と言う。その時の天候を、「このヒトは雲になるか散ってしまおうか、自分でも知らない」状況だというのである。彼には、霧が雨になろうか、それとももう少し待どうかと思案しているように思われたのだ。
デルスウは自然を人格化して考えた。彼は風の身になって考えた。霧の身になって考えた。鳥たちの身になって風がどちらから吹いているのかを考えることができた。風向きについてアルセーニエフから聞かれたデルスウは、樹のうえにとまっている鳥たちが北東を向いてることを指して「北東だ」と答えた。アルセーニェフにとっては、どうしても南風のように思えたのだが。デルスウが説明した。風の吹いて来る方向に尾や腹を見せたらどういうことになるか。寒い風が柔らかい羽毛の中に入り込み、鳥たちの体は冷えてしまうではないかと。
旅のはじめの頃、一行が野営していた時のことであった。デルスゥは自分が運んできた肉の塊を、近隣の住民たちとも全く平等に分配した。アルセーニエフのロシア人の部下たちがこれに文句をつけたが、彼はとりあわなかった。自分の獲物は、民族を間わず隣人みんなに等分に与えるという「原始共産観念」は、「彼のあらゆる行為に、一筋の赤い線のように通っていた」のである。同じくある野営の晩、食事を済ませた一行が寝る準備をしていた時のことであった。後片付けをしていたアルセーニエフは、みんなが食べ残した肉をたき火の中に放り込んぢ途端にその行為はデルスウの不興をかうことになった。デルスウは火の中の肉の塊を手で掴んだかと思うと、それを森の方角に放り投げた。「わしら、あした、ここ去る。ここへ、別のヒト来る。そして、食う。火に入れると、肉なくなる」
シベリアのタイガ(密林)には、様々な動物たちがいる。タヌキ、アナグマ、カラス、ネズミ、アリ...。「タイガには、いろんなヒトがいる」とデルスウが眩いた。自分たちの都合しか考えないアルセーニエフの振舞は、デルスウにとって、まことに手前勝手な行動に思えたのに違いない。アルセiニエフは、自分の軽はずみな行動とデルスウの不興とをあわせて記録することによって、彼自身の自己批判の気持ちを表そうとした。他人(当然、人間も含む)に対してのやさしさは、自分だけ浪費し、我のみの快楽をよしとする者に対する厳しい批判と一体のものであったはずなのだ。すべての事象を相手の身になって考えるデルスウの視野に、現代に生きる我われの姿はどのように写会ことであろうか。他人=人間)の痛みに対する想像力において鈍感の極致たる二十世紀文明人に、森の痛み、鳥たちの痛みや悲しさを、想像せよと望むほうが無理かもしれない。
シベリアの民話、伝承文学を研究・調査している斉藤君子は、民話に生きている「擬人化」について書いている。「この世のありとあらゆるものが生命をもち、意思をもって生きていて、人間となんら変るところのない対等の存在であること、こうした存在を味方につけ、彼らの力を借りてはじめて件盟叩な自然の中で生きのびることができるのだ」(『シベリア民話への旅』)と。お互いが対等の存在者として交流するなかでこそ、一方は相手を深く認識することができる。深くつかむことによって生きることができる。認識するということは、あるときはその対象の助けを借り、あるときはそれを助け、あるいはそれと格闘するという、相互の関係の中でこそ可能となるものである。おそらくデルスウの認識とはそのようなものであったろう。洪水に遭遇し、一行が濁流に呑み込まれようとした危機の時、デルスウは彼の全身で自然の言葉を理解した。風向き、雲の流れ、水の音、その速度、それらのものをいちはやく理解した。その結果、常に先を読み、的確・機敏に対処の方策を立てることができた。そうしたデルスゥの力で幾度アルセーニエフらは命を救われたことか。そこには生きた認識があった。
デルスウは、自然が残したどんな小さな痕跡からも、以前にどんなことがそこで起こったかを知ることができた。足跡からも、その主に起こったことのすべてが分った。その主が老いた中国人であること、彼がそこで立ち止まったこと、道に迷ったこと、同僚に足に怪我をした者がいることなどがたちまち分った。「若いヒトは爪先で歩く。老人は踵で歩く」。不思議なことはない、デルスウは眩いた。また、空気の匂いから百五十歩先に猪がいることも分った。アルセーニエフが十分ほど歩かなければ分らない遠くの煙の匂いを嗅ぐことができた。探検行の途中で出会ったウデヘの男たちは、アルセーニエフの地図を即座に理解し、岬や川や丘の位置を正確に言い当てることができた。生まれてから見たことのない平面図法の、それがなんたるものであるかを認識することができた。アルセーニエフは感嘆して、彼らは「まるで生まれてからずっと、その仕事に携わってきたかのようだった」と記している。氷点下十九度の戸外で、彼らは平気で眠ることもできた。
彗星が現れた晩のことであった。アルセーニエフの部下のロシア人たちは、あの星の下で戦争が始ったとか、自分たちが遭った洪水はあの星のせいだったとか、口々に騒がしかった。その横にいたデルスウは、「あれはいつも空を行く。人の邪魔はしない」と、つまらなさそうに言っただけだった。自然をコントロールしうると傲慢にも思い込んだ文明人は、それでも自分たちに理解できぬ事態におよぶと、恐怖したり、あるいは迷信や占いの迷路に迷い込む。自然と対等に付きあうことができず、恐怖するか支配するか、そのいずれかの在り方しか理解できぬ文明人は、ひたすら自然界の猛威から身を守る「防護具」を開発するか、自分たちの快楽を邪魔するものに根絶やし的支配を貫徹するかしかない。デルスウの擬人化をロシア人たちは笑ったが、デルスウは「アトで痛いメにあってもしらないぞ」と眩くのだった。その後の二十世紀世界が自然界を支配するために果たした狂気のために、その後の人類がどのような「痛いメ」に遭ったか、我々はのちにカーソン女史をはじめとする多くの人々の記録を見なければならないだろう。
探検行の終わりの頃、デルスウは自分の視力の衰えを自覚した。猟師にとって視力は命である。年老いた白頭をどこに横たえるべきか。アルセーニエフの好意に甘えることにして、ハバロフスクで共同生活に入ることにした。だが、町での文明生活は三か月ともたなかった。デルスウにとって、薪にも、水にも、金がかかる生活は信じられるものではなかった。薪を金で買おうとするアルセーニエフは銅されているように見えたし、水道料金を払おうとするアルセーニエフに、水はあそこにあるではないかとアムール河を必死に指したのだった。道路に眠ることもできない、銃を撃つこともできない、禁制に囲まれた生活。デルスウは自由が完全に失われたこと、自分はこの町では生きて行けないことを知った。そしてアルセーニエフもまた、深い悲しみとともに、デルスウを連れてきたことが間違いだったことを悟った。デルスウは痛切に理解した。この町では、自分が欲するようにではなく、他人が欲するようにしか生きられないことを。
森へ帰ることを決めたデルスウは、町はずれでたき火をしているところを、ロシア人の野盗たちに撃たれて死ぬ。知らせでかけつけたアルセーニエフは、死ぬ直前にデルスウを見た人間から、彼が幸せそうに梢の小鳥たちと話していたということを聞いた。文明から解放されたデルスウは、小鳥たちと何を話していたのだろうか。デルスウが死んだ数年後、そこを訪れたアルセーニエフは、目印の樹も跡形なく消え、道路とビルの建設が騒がしく始っていることを目撃する。我々の周辺からは、デルスウが愛したいっさいのものが消えてしまった。デルスウを倒した銃弾は、二一十世紀文明そのものではなかったか。(おわり)