●各駅停車の二十世紀(3)
【闇の奥 コンラッド著】(川上 徹)
二十世紀の人種思想に決定的影響を与えたのは、ヨーロッ。八人がアフリカで味わった体験であった。一八八四年(アフリカ分割戦争)から一九一四年に至る三十年間の帝国主義時代(H。アレント)の幕開けを血の色で彩った黒人部族の大量殺薮事件。ブーア人によるホッテントット族の根絶、ドイツ領東アフリカにおけるカール・ぺータースによる原住民の大虐殺、ベルギー領コンゴにおける凄じい大量殺人等々。アレントは、これらの途方もない流血をもたらしたヨーロッパ人たちの人種妄想がいかなるものであったか、その背景を知るには、いかなる歴史書、比較民俗学の書物よりも、ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』に勝るものはない、と言う(『全体主義の起源』2)。
『闇の奥』は、一人称による語り手、船乗りマーロウが、自分が奥コンゴでかつて体験した見聞を、たまたま乗船した同僚たちに語り聞かせる、という形で展開される。
照りつける灼熱の太陽のもとで黒人部族と出会ったときの驚愕を、マーロウは告白する。
「あの先史時代人たちは、果たして僕等を呪っているのか祈っているのか、それとも歓び迎えてくれているのだろうか?わからない。……彼等もまた人間だという、そのことが最悪の疑念だった。疑念はいつも徐々として頭を占める。彼等は捻り、跳り、旋回し、そして凄じい形相をする。だが、僕等のもっとも慄然となるのは、僕等と同様、彼等も人間だということ、そして僕等自身と、あの狂暴な叫びとの間には、遥かながらもはっきり血縁があるということを考えた時だった」おそらく、ブーア人の先祖(オランダ人移民)たちが、十七世紀の半ば、インド航路を確保するためにケープタウンに下船させられ、原住民と遭遇したときの驚きもまた、同様のものであったろう。彼等もまた人間でなくはないらしい、と認めたときの限りない不安。人口の欄密なこの大地で、彼等と額を突き今世て生きていかなくてはならない、とつきつめて考えたときの恐怖。そこからは、ひとつの重大な「決意」が生まれた。これら原始部族の「計画的根絶」を願う気持ちが強く根を張った。ブーア人たちは、根絶戦争の過程で、黒人という無尽蔵の労働力に自分たちが寄生する楽園、独特の奴隷制社会、肌の色の違いのみに依拠する世界を、そこに築き上げたのであった。それは、想像を絶する完壁な人種社会であった。
しかし、その後このおそるべき世界は、しばらくヨーロッ。ハに知られることはなかった。インド貿易戦争に破れた国は南アを見捨てるのが常だったし、また、スエズ運河が開通(一八六九年)し、ケープコロニーの価値がますますなくなったからである。南アは捨てられた。また、何人かの探検家たちがアフリカ奥地に入り込み、黒人部族と遭遇したものの、彼等の体験は断片的なものにとどまり、思潮としてヨーロッパに影響を与えることはなかった。
ところが、そうした事態を一変させる出来事が起こった。スエズ運河開通の数年後、キンバリーで金とダイヤの大鉱床が発見されたからである。価値自体、富そのものと見える物質の発見は、人々を狂喜させた。熱狂的な金発掘事業が始まった。それとともに、一擾千金を夢見る山師、夢想家、投機家、詐欺師たちがどっと南アにやってきた。ヨーロッパで行き所のなくなったバブル資本とともに。ヨーロッ。ハ社会の余計者と余計な資本が手を携えて南アにやってきたのであった。「骨の髄まで虚であり、無鉄砲だが意気地がなく、食欲だが剛毅さはなく、残虐だが勇気はない」(『闇の奥』)各地のモップが、群をなして、ここ忘れられた土地にやってきたのだった。そして、ブーア人の人種天国と出会うこととなったのである。
南アの金鉱事業は、セシル・ローズがイギリス本国からの投資を一手に握り、ケープコロニiの中心人物となったときから帝国主義事業となった。事業の全配当の七五%が国外へ、そしてその大部分はイギリス本国へ流出した。こうしてローズは、本国から、事業の保護を名目に、軍事力=無制限の暴力を引きだすことに成功した。しかもここでは、ブーア人にならって、人種的考慮の前にはあらゆる経済的な合理的計算は度外視された。これはモップにとって、かつてない楽園であった。経済的力が無くとも白い肌と純然たる暴力さえあれば、社会の中に好きなだけ無権利者を作り出すことができた。好きなだけ支配を広げることができた。異民族、後進民族をどれだけ酷くムチ打てるかが、自らの上昇そのものとなりえた。ヨーロッバ社会で、故郷を追われ、アトムと化し、吐き出されたモップたちが、ついに見つけだした楽園であり「故郷」でもあった。
ちょうど同じ頃、マーロウは、奥コンゴにある象牙収集支社長である「クルツ氏」に会いに、コンゴ河を遡っていた。無尽蔵に見えたアフリカ象を殺しつくし、とてつもない量の象牙をヨーロッパに運びだし、邪魔だてする黒人部族を平定している「優秀」な支社長である謎の男「クルツ氏」。その「クルツ氏」に会って彼の住居を見たとき、マーロウは愕然とする。それは、遼くからジャングルの中を眺めたとき、尖った屋根の家の周囲に何本も立つ杭のようなもので、その突端には球形の飾りのようなものがついていた。だが、近づいてよく見ると、球形の飾りのように見えたものは、見せしめに殺した部族民たちのシャレコウベであった。「クルツ氏」もまた、アフリカ奥地に跳梁するモップのリーダーの一人であった。
アレントによれば、その「クルツ氏」こそコンラッドがそのモデルとしたカール・ぺータースではないか、と言う。彼は、一八九七年、アフリカ原住民に対するあまりの残虐行為の廉で、ドイツ帝国議会により赴任地東南アフリカから退去させられている。帰国した彼は、自らの「植民の意欲の動機」について率直に書いているという。「わたしは、賎民(パーリア)の一人とみなされることにうんざりして、支配民族の一員となろうとしたのだ」と、「クルツ氏」について、コンラッドはマーロウに語らせる。「生身のクルツは半分イギリスで教育を受けた、そしてもともとは哀れみ深い人間だったらしい。母親は混血のイギリス人であり、父親も同じく混血のフランス人だった。いわばヨーロッパ全体が集まって彼を作り上げていたといってよい」。ヨーロッパじゅうがよってたかって作り上げた「クルツ氏」は、自らのメモ帳の最後にこう書き記している。「よろしく彼等野獣を根絶せよ」と。そしてまた、こうも書いている。『(苦々白人が)彼等(蛮人)の眼に超自然的存在として映るのはやむをえない。吾々はあたかも神の如き力をもって彼等に接するのである」「苦々はただ意志の働きだけで、ほとんど無際限の力を行使することが可能である」。
(尚、中野好夫は、『闇の奥』〈岩波文庫〉解説で、「クルツ氏」のモデルはベルギー国王レオがルド2世の作った「奥コンゴ貿易振興会社」の奥地支所員、ジョルジュ・アントワーヌ・クラインなる人物ではないか、としている。また、矢島剛一によれば、コンラッドの草稿ではクラインとなっていたのを、のちにクルツと改めた、とされる。『コンラッド』研究社〉)
コンゴ河遡行の過程で、マーロウは目撃した。意志の働きだけで、つまり好き勝手に、無際限に力を行使しているヨーロッパ人たちの姿を。それは、経済的「合理性」の視点とか「目的と手段の関係」といった発想からは、到底理解できない光景であった。フランスの軍艦が、眼も眩む太陽の光のもとでジャングルに向かってしきりに大砲を撃ち込んでいた。「敵」らしい姿は全く見えなかった。弾丸も、発射されるときの豪音も、まるで大気の中に吸込まれるだけのようだった。豪音のあとの大気の静寂。それは真昼の狂気であった。弾丸を吐き出している、捨てている光景に近かった。単なるカの行使。
奥地から象牙を運び出すための、鉄道の敷設作業も同様の光景だった。何の邪魔にもなっていない断崖に、黒人たちを使ってハッパをかけていた。爆発と同時に黒人たちは逃げて行くが、それは不自由そうであった。黒人たちの肋骨は一本ずつが数えることができるほど痩せ、首には鉄鎖をはめられ、それは他の者と繋ぎ合わされていた。彼等は『なんということもなくハッパかけだけをやっている」のだった。
鉄道敷設作業の近くのジャングルの中に、使い捨てられた黒人たちの生きながらの墓場があった。墓標があるわけでなし、埋葬の地面があるわけでもない。「風のように痩せ細った」瀕死の人影が、あるいは寝そべり、さては幹に寄り掛り、地を葡い、ほの暗い光の中で、ある者はくっきりと、ある者は半ば影のように、浮き出していた。そこには、ただ死を待つだけの「苦痛と自棄と絶望の姿態」「あらゆる悶死の姿態」があった。
その後、人種思想は、帰国したモップ、それに眼をつけた政党のリーダー、民族運動の指導者たちにより、ヨーロッ。八大陸規模で纏実に影響を広げていくこととなる。彼らは自らの体験で、民族を人種的部族に退化させることは可能であり、自民族を『支配人種」にまつりあげることは可能であることを学んだのであった。その後何十年か経ってから(そして今!)、こうした人種思想に基づく狂気が、『民族浄化」なるスローガンのもとにヨーロッパをはじめ世界じゅうで、行政的、組織的に遂行されるような事態が来ようとは、当時は誰も予想することができなかった。我々は後に『風のように痩せ細った人々」の「悶死の姿態」を、もっと大規模にユダヤ人ゲットーで見ることになる。それは決して偶然ではない。アレントによれば、ナチの文筆家たちの多くはアフリカ出身の在外ドイツ人であったという。彼らにとっては、人種思想の前にはあらゆる『合理性」なるものは消し飛んでしまう。ナチは、あの大戦のさなか、車輌不足が明らかであったにもかかわらず、『費用」の点からすれば戦争遂行と矛盾するにもかかわらず、数百万のユダヤ人をヨーロッパ各地から絶滅収容所に送り込む計画を変えることはなかったのである。
『闇の奥』に戻ろう。この物語の筋立て自体は、マーロウがパリの場末にある怪しげな船員募集会社を訪ねるところから始まり、ヨンゴー河奥地で『クルツ氏」に出会い、彼の最期を見届け、再ぴパリに戻り、かつてのHクルツ氏」の恋人にそのことを報告するまでの話である。
パリ。そこはちょうどドレフュス事件の起る直前の街であった。アフリカ行きを決意したマiロウが訪ねたその事務所では、薄暗い部屋の隅で編み物をしている、冷たい、死の使いのような女と、ひたすら愛想よくあぶれ者の若者たちを次々と未知の国へ案内している若い女が迎えてくれた。部屋の中央には卓が一つ、その周囲には粗末な椅子がぐるりと囲んで、壁には七色に塗り分けられた世界地図が貼ってあった。部屋の雰囲気そのものが、何か凶兆のようなものを感じさせていた。フロックコートを着た、顔色の悪いぶくぶく太った男の面接を経て、頭骨を丹念に計る奇妙な医者の「これならいける」という「合格」を貰って、マーロウは旅立った。この事務所は、ヨーロッパじゅうに溢れていた余計者たちを、せっせと暗黒大陸に送り込む中継基地であった。
地獄の体験を経たマーロウにとって再び舞い戻ったパリは、以前と同じ「人間の墓場」のような街だった。そこは「街を気ぜわしげに右往左往しながら、互いに零細な金をくすね合い、忌まわしい料理を鉄い、有害なビールをあふってはくだらない愚かな夢をみている群衆」にあふれていた。マーロウは見た。「何の反省もなく、生活の安全さを確信して、仕事に忙殺されている衆愚の生活態度」を。「地獄だ」と叫んで狂死したクルツ。そのかつての恋人は、彼の最期がどんなものであったかをしきりに聞きたがった。そして、黒衣を着て涙にくれながら、クルツは自分の名前を呼んだだろうと、マーロウを促す。この女性に何を話しても無駄だと悟ったマーロウは、静かに肯く。「無知」の傲慢。
コンラッドは、この時代、世界各地に敵らばったヨーロッパのヤクザ者や、居所を失った「上流貴族」たちの姿を描いた作品を多数残している一『オールメイヤーの阿呆館』その他)。『勝利』におけるヘイストは、スウェーデンの貴族の出身といううわさの男で、少年時代イギリスに渡りそこで教育を受けたらしかったが、父親の死後は行き所と人生の張りを同時に失い、ここジャバ海まで流れついた人間であった。彼の命をつけ狙うジョーンズという病人のように痩せた怪しげな男は、南米でさんざ悪事を重ねてきたあげく、東洋にまで流されて来たらしい。野獣のように狂暴な手下を常に従え、土地の白人を誘ってはバクチに興じていた。こうした男たちの揺れ動く気分や狂気を描くことによって、コンラッドははからずも、帝国主義の時代にその前線で虫のようにうごめいていた人間たちの内面世界を描写したのである。
コンラッドは、一八五七年、東ポーランドの地主階級の一人息子として生まれた。ポーランドは、第一次大戦の終了まで、つねにロシア、オーストリア、プロシアなど周辺の大国に分割され続けていた。父親は幾度か反ロシア蜂起に加わったため、逮捕・流刑され、コンラッドが十一歳のとき非業の死を遂げる。流刑の過程で既に母親も失っていた少年コンラッドは、孤児となった。叔父に引き取られた彼は、十六歳の時、マルセイユから船乗りとなる。多感な少年時代を、民族相互の憎悪と抵抗の嵐の中で壇一したコンラッドにとって、その後のアジア航路、アフリカ航路において、登場する人間たちの精神の深奥をことのほかよく見通すことができたのではないか。「バルト海からアドリア海に至る民族混住地帯」(アレント)の一角で、民族と民族が額を突き合せて暮らして行かなければならない狭い空間においては、隣人の狂気が身に染みてよく見えたに違いないのである。