昨年暮れ、私は、25年前に起こったある事件について、自分の体験をもとにした本を出した(『査問』筑摩書房刊)。一部で「新日和見主義事件」と呼ばれた事件のことである。
その当時、日本共産党が指導する青年学生運動の中枢部の党員たちが、党に対する分派活動の嫌疑をかけられ、破壊分子とのレッテルを貼られて一斉に拘束・査問されていた。家族との一切の連絡を断たれた拘束は、長い者で十四日間に及んだ。
私は破壊分子たちの中心人物とされた。査問された者たちは、私を含めて全員が自らの意志で査問を受け入れ、党の側の糾弾を受け入れ、自己批判してその後も長いあいだ党に残留した。私がこの本を書いたのは、今から考えればどう考えても理不尽な拘束をどうして受け入れたのか、なぜその後も連綿と党に残り続けたのか、できる限り客観的に見つめ直してみたいと思ったからであった。
本書が出版されると反響は大きかった。事件に巻き込まれ犠牲を受けた人々からは「よくぞ沈黙を破ってくれた」「遅すぎた」「歴史の空白が埋められた」との声が多く寄せられた。だが、中には、なんであれほど党に従順に従ったのか、読了後もよく分からない、という率直な声もあった。
そうした声は、私より比較的若い人と、私よりかなり年長の人たちに多かった。「何で拘束を破ってでも抜け出ようとしなかったのか」と。そうした声を寄せてきた人は、共通してひとつの場面が「よかった」と指摘してくれた。
本書の中で、ほんの一部だが、私の父が登場する場面がある。拘束状態にあった私を救出するために、父が「人権擁護委員会」に電話をかけようとするところである。「アノ部分がよかった」というのである。本書には数多くの登場人物がおり、その行動が記されているが、不当な圧迫に人物がきちんと対応したのはアソコだけだったというのである。
自分では気がつかなかった。どちらかと言えば気が優しく、息子としては優柔不断にさえ思えていた父に、あのようにきっぱりとした激しい決断を促したものは何だったのか。
私にとっては、唐突とも思える父の振る舞いであった。だが、もしかしたら、父の脳裏には四十年ほど前の自らの苦い体験と記憶がよぎっていたのかもしれない。
長野オリンピックで華やいだ信州・安曇野には、私が前記の事件に連座する直前、小学校教員を定年で辞めた私の父が、退職金全部をつぎ込んで建てた山小屋がある。
小屋は、「(萩原)碌山美術館」のあるあたりから、松本と糸魚川を結ぶ国道を西に入り途中で梓川を渡り、車で十分ほど山合に上った所にある。夏の夜、小屋のある高台から安曇野の盆地を望むと、国道に沿って点滅する様々な色の光の帯が左右に細長くつながっている。南へ向かう光の帯は次第に太く大きくなり、ぼんやりと明るい松本市の明かりに合流する。北へ向かう帯は次第に途切れ途切れとなって闇に消える。
父は、自分の晩年は「この山小屋で暮らす」と言っていた。近くの農家から土地を借り、自給自足の暮らしをしたいのだ、とも。彼が生まれ育った東筑摩郡中山村は安曇野盆地を横切った向こう側、松本市のはずれの山間にある。村は山の懐に抱かれ、小屋から直接望むことはできないが「アノあたり」と指さすことはできる。「人間は土に帰るのがいちばんの幸せなんだ」と、父はよく言っていた。「生まれた所に戻るのだ」とも。信仰に近い希望を強く持っていたのだろう。だが、長年勤めた小学校教員の仕事と手を切る機会を逸し、年に何度か訪れるだけで逝ってしまった。今から15年ほど前、彼が72歳の年であった。
退職金をはたいた場所が、なぜ、安曇野のこの地でなければならなかったか。私はそのことについて、生前の父に直接に確かめたことはなかったが、もう一つの理由があるように思う。それは、彼が青春時代に味わった痛切な体験と関係している。そしてそれは、後年、息子である私の不当な拘束に対するきっぱりとした態度の背景でもあった。
1931年、長野師範学校を卒業後、小学校教員として初めて赴任した地が南安曇郡南穂高小学校であった。安曇野盆地を見下ろす小屋からは、そう遠くない所にその学校はあった。いま、少子化と過疎化の時代の波を受けて、南穂高小学校は廃校となっている。夏草に囲まれて朽ちつつある校舎と校門を背景に、散策する父のスナップ写真が何枚か残っている。亡くなる数年前、母と2人で訪れた際のものらしい。
村長の家の六男坊として生まれた父は、当時の高等小学校を卒業すると同時に、すでに家督を継いでいた長兄夫婦に頼み込んで長野師範学校に進学させてもらう。師範学校に進むには中学校を経て行く途もあったが、とてもそれほどの資力も力もなかった。かなり歳の違う義姉には、子どもの頃の寝小便の始末まで世話になったという。
叔母にあたるその人が、ある時、遠い昔を懐かしむように語ってくれたことがあった。「潔(きよし)アニを長野に送り出す時はせつなかったジィ」「あのアニ(兄)は幾つになっても寂しがり屋だっでナ」。信州では、女が男を親しく呼ぶとき、年齢の上下に関わりなく独特のイントネーションで「アニ」と言う。長野市に出発するその日、姉は弟の袴を着けてやったという。
父は、南穂高小学校に赴任すると同時に、学校内で結成された非合法組織・社会科学研究会のメンバーとなる。その後、長野県中部地区の小学校教員たちで組織された「チョンガー会」に参加。「会」はおそらく社会科学研究会の外郭団体のような親睦組織だったのだろうか。翌年、「新興教育研究所」長野支部および「全協日本一般使用人組合」長野支部に加入。組合の中部地区・財政係となった。社会の矛盾に目覚めたばかりの青年教師たちの運動は、急速な広がりを示した。だが、33年になるとナチスが政権を掌握し、日本が国際連盟から脱退する事態ともなり、世の大勢はファシズムに向かいつつあった。
33年2月4日、治安維持法違反の嫌疑をかけられた教師たちの運動は一斉に弾圧された。研究会、組合の役員たちの検挙から始まった逮捕の網は次第に広がり、検挙者の合計は、4月までに65校・186名に及んだ。世にいう「長野県教員赤化事件」の始まりであった。
その日(2月4日)の早朝、特高刑事たちが踏み込んできた時、父は学校の宿直室にいた。寝込みを襲われた彼はあっけなく捕まった。宿直室の板壁はところどころ剥げかかっており、そこに財政帳簿類を押し込もうとしたが、慌てていたのでうまくいかなかった。あれはドジな捕まり方だったと、後年、父は振り返っていた。
財政係を締め上げれば組織の全貌は割れる。苛酷な取調の果てに彼は獄中で「転向」した。3ヶ月ほどで釈放されたが、その後も「思想善導」という名の監視は続いた。
「アカ」のレッテルをつけて村に帰った青年教師は、実家の兄夫婦一家の農業を手助けしながら、現金収入を得るため、しばらくの間、長距離トラックの助手となった。松本と糸魚川を結ぶ国道の往復を日課とした。梓川に沿い、ある時は大きく蛇行し、安曇野の盆地を縦断する日々。途中に南穂高小学校がある。半年ほど前まで教え子だった子どもたちから声をかけられることもあったという。
その後の戦局の悪化とともに、彼は軍隊に召集された。そして、配属された松本連隊で、またしてもここ安曇野のなだらかな丘陵地帯で一兵卒として演習に参加したという。父の前半生の記憶は、安曇野の盆地と切っても切り離すことはできなかったのだろう。
戦後はかなり熱烈な共産党支持者であった。党に対して必要以上とも思える「敬意」さえ抱いていたように思えることもあった。そして、息子である私が運動の活動家として邁進していく姿に一貫して理解を示そうとし、自分が果たせなかった夢を託そうとさえしたように思えた父であった。そして、私に呟くように言ったことがある。「オレは決して意志の強い男ではない」「オレはもともと信州の百姓なんだ」と。そんなとき、青春時代の苦い「挫折」の記憶が過ぎっていたのか。
そして退職後、安曇野に小屋を建てそれを息子たちの運動のために役立ててほしいとさえ言っていた矢先、彼は息子の査問事件に遭遇した。こともあろうに、息子は共産党によって囚われている。驚天動地の事態であったにちがいない。「人権擁護委員会」に電話をかけるという行動が、党に対してどのような結果をもたらすか、彼は熟知していたものと思われる。にも関わらず、彼は決然とした行動をとろうとした。肉親であるがゆえに、安否をたしかめないではいられなかったのか。うろたえたのか。それもあったろう。おそらく、その時、彼の行動を後ろから押したものは、政治的思惑とか、政治的利害や判断とかいったものをはるかに越えた「何か」であったはずだ。それは何か。私はうかつにも、生前の彼にその辺の事情を聞きそびれた。父は私に宿題を残した。