【<断想>老年という季節】 山田太一(作 家)

 

 日本の社会は、高齢を持て余している。

 長命を辛うじて「めでたい」とはいうが、心からいう人は少ない。老いの現実がはっきりして来ると、本人にとってはともかく社会的には、長寿にほとんど取得がない。

 いい方を変えると、高齢の取得を私たちの社会が見つけられずにいるともいえるのではないだろうか。

 たとえば私たちは「いきいきしていること」の価値を疑わずに長いこと生きて来た。「いきいきしてますか?」と聞かれて「はい」といえない人間は、人格的に少し劣るような思いに襲われる。これでは老人は二次的存在になるしかない。老人がのべつ「いきいきしている」などということはあり得ない。それでもいきいきした老人に光が当てられ、「いつまでもお若い××さん」などという。これはつまり若さが何よりといっているのであり、次に光が当てられるのはその若さをとり戻しようもない痴呆や寝たきりの老人だったりする。

 本当に光を当てるべき老人は、別にいるのではないか。あるいは、光の角度がちがうのではないか。

 称揚すべきは、年より若い老人ではなく、その年齢その年齢の輝きを無理なく手に入れている老人なのではないか。

 次々と変化する現実に、たちまちいきいき適応して行く人々に、その軽薄さ、その空しさを気づかせるような老人なのではないか。いきいきしていては気がつかない季節のかすかな変化、人の心のゆらぎ、弱くて小さなものの美しさ、そういうものを気がつかせてくれる老人なのではないか。

 私はいま64歳だが、年齢による人間の変化がこれほどのものとは思っていなかった。粛然として襟を正す気持といってもいい。

 どんなに頭のいい子でも、5歳や6歳では性欲の現実は分らないが、20歳になれば、凡人中の凡人だって大抵のことは身をもって分ってしまう。

 そのあたりの変化は誰だって承知しているが、50歳と60歳、80歳と90歳の変化は、まだほとんど木目細かく対象化されていないのではないだろうか。個人差が大きくなり、多様だというのも事実だが、一方でやはりあらがい難い季節の変化のようなものがそれぞれの年代にあるように感じている。

 その変化にあまりさからってはいけない、という気持がある。さからっては勿体ない、と思う。面白い、といえば面白いのだ。

 これからは軽口だと思って読んでいただきたいが、たとえば漱石は50歳で没している。とびぬけた才能だから、あまり一般化はできないけれど、80歳まで元気だったらどんな作品を書いただろう、と想像してみるのである。随分ちがっているだろう。読みたいものだとかなり本気で願うのである。

 富岡鉄斎の展覧会に出かけて、60代の絵と80代の絵に、大きな差があることに感銘を受けた。素人の勝手な感じ方だが、私には80代の絵の方が格段にいいように思えた。

 つまり、そういう金脈が財産が、高齢には相当あるのに、掘り出す手段を失っているということがあるのではないか。

 デカルトが、あらゆるものを疑ったが、疑っている自分の存在は疑えないという唯我論を完成したのは何歳か知らないが、まあ60歳以上ではないだろう。そういう極端なことは、西洋人でも若いうちのことではないだろうか。そのよさも勿論あるが、滑稽なところもある。徹底した推論が非現実におちいる可笑しさがある。

 こんなことを図々しくいうのも、60代だからで、50代ではいわないかもしれない。こういう自分の、少しずつたががゆるんで来る有様も面白い。

 年齢という季節を楽しんでいる。さからえ、乱せ、若くあれ、という論議もあとをたたないが、まあ勝手にやってくれ、と思っている。