【エッセー/消えた言葉】 (小栗 康平)

 

 シナリオは四百字一枚をおおよそ一分と計算するので、二時間の映画だとすると百二十校程度を目安としている。撮影のための台本だから、シナリオはシーンごとに場所を明示して書かれる。セリフはカギ括弧で示され、いわゆるト書も小説の地の文と異なって短い。改行も多く原稿は余白が多い。小説と比べれば文字数は少ないが、それでもともかく、百何十校かにはなっている。そのシナリオが映画になると、言葉として残るのは俳優たちのセリフだけである。ということは、とりあえずシナリオのそのほかの言葉は、撮影することで消えて行くといっていいかもしれない。

 消えた言葉は、映像の中から再ひよみがえってくるのだろうか。よくそんなことを考える。同じようによみがえってくるものがあるとすれば、それは「物語」に結びつく言葉だ。しかし物語が映画の全体を示してくれるわけではない。映画について語るとき、言語化できないところがそのもっとも魅力あるところだといったことがいわれるが、はたして本当にそうなのであろうか。いい映画を見る。たしかにそれまでの言葉の積み重ねでは考えてみなかったことに出会う。でも映画を見終われば、それをまた言葉にしている。映画の受容のあとさきで、「言葉」が変化して、ことばのもつ距離感とか重さとかが変っていくのだろう。シナリオにあった同じことばがよみがえってくるわけではない、これは映画をつくっていても同じことで、シナリオで書いた言葉と映画を撮って「言葉になってくるもの」とは、そうとうにズレているように思う。そのズレてある幅はなかなか言語化できない、そういういい方はできるかもしれない。ぼくは映画を撮るまで文章をあまり書くほうではなかったから、シナリオを書きながらよくつまずく。これはこれで言語の作業なのだというところがもちこたえられない。言葉におくてだったぼくの情けないところだ。映像にはもっとおくてだったのに、それはそれで当たり前だと思うところがあって焦るところもない。妙なものだ。そうやって思い悩むこと自体が、言葉という道具をもった人間の幸でもあり不幸でもあるのだろう。(映画監督)