アッバス・キアロスタミ監督のイラン映画『友だちのうちはどこ?』(一九八七年)と『そして人生はつづく』(一九九二年)は、簡明な筋と計算された細部、登場人物たちの振舞いの自然さ、あくまで映像に語らせる構えとそれを実現しているキャメラ・ワークなどによって、映画とはまさに。こういうものであったかと思わせる作品である。
『友だちのうちはどこ?』は、隣の席の友だちのノートを学校から間違って持ち帰ってしまった小学生が、そのノートを返そうと友だちのうちを探して行く話であり、この作品の後楠茉とも言える『そして人生はつづく』は、九〇年にイラン北部が大地震に見舞われた後に前作の舞台となった寒村を、この小学生の安否を気遣った映画監督がその息子とともに自動車を走らせて訪ねて行く話である。筋はこれでほぽ尽きている。
演劇が言葉によって観客のイマジネーションを喚起するように、映画は映像によってそれをするという当然のことを、この二つの作品は如実に見せてくれる。例えば、『友だちのうちはどこ?』のノートに挾まれた小さな黄色い押し花のショット、『そして人生はつづく』の最後で自動車が急坂を登るショットなど。見る者の感情を揺さぷりながら感傷に流れず、感情移人を誘いつつ対象との距離感を保持させる映像である。後者は一見ドキュメンタリー風ながらさにあらず、両作品の行き届いた仕掛けの数々は汲めども尽きぬかの如くで、そのうえ監督のゆったりした視線も感じられる。
この二つの映画には特段のメッセージはないようにみえる。中国人監督の海外で評価された作品でも国内上映は認めない場合が今もある中国の政治情勢に比べ、イラン革命やイラクとの戦争があったイランが政治的に平穏だったわけでは決してない。だが、アッバス・キアロスタミ監督は一九七〇年以降毎年のように、海外での評価が高まって後も、イランを離れず映画を作り続けた。メッセージがあるとすれば、『友だちのうちはどこ?』は友情を、『そして人生はつづく』は生きる意志を、見る者に伝える。それはメッセージというよりは、ともすれば忘れがちになる人間の基本的な感覚を見る者の内部に呼び覚ますものと言ったほうが真相に近い。二つの映画には、洗濯物や、洗いものをする場面が繰り返し登場する。大地震の後に、家の倒壊や身内の者たちの数多い死で生きる意志を失ったなら、どうして衣服を洗い皿を洗うだろう。洗濯物を一」ういう意味で用いた映画は初めてでは無論ないが、一見平凡な場面の累積が生きることの基本が何だったかを印象付ける。
この映画は、間違って待ち帰ったノートをすぐ返さなければ友だちが困るだろうといった単純と言えば単純な感覚で結ばれた人間関係が、ワイロの類を当然視する人間たちの満ち満ちた社会の人間関係の対極に厳然と存在することを示すかの如くでもある。(富山国際大学教授)