【ピーターソンのグローブ】 (李 恢成)

 

 どうにかニム・ウェールズ(H・F・スノー)の居場所を確かめた時はほっとした。彼女はやはりナーシング。ハウスだった。そのことが分る直前まで私はハラハラしていた。日本から送った手紙に返事を頂けなかったのは今回が初めてのことだ。どこにおられるのか?私たちは案じながら、マジソンまで赴いたのだった。

 その「養老の家」で、やっとニム・ウェールズに会った。何と病み衰えていたことか。八十六歳の高齢ならば、この老衰も致し方ないのかもしれぬが、長い歳月に亘って孤高を持してきたこの偉大なジャーナリストの人生をいささかでも知る者にとっては何とも胸が痛い姿だった。しかし、彼女はいまだに頭脳明断であり、やり残した仕事に執念を持っていた。私に、ピーターソンに会えと命じた。

 私たちはピーターソン夫妻を訪ねた。この夫妻がニムの留守宅を管理しているのだ。ピーターソンは野球のユニフォーム姿のまま、グローブを片手に私たちを出迎えた。小さな会社の社長でもあるこの中肉中背の人物は、草野球チームを率いていて、今しも試合から戻ってきたばかりだった。陽焼けした彼は、私たちを歓迎し、自宅に招じ入れようとした。だが、時間のない私たちは辞退し、ニム・ウェールズの留守宅に向かった。不意に一匹の大きな黒猫が現われ、ピーターソンの足許にじゃれついた。ニム・ウェールズが可愛がっていたシャム猫である。

 彼はグローブのような手で黒猫の喉元を撫ぜ、餌を与えた。それから彼は部屋の鍵を聞けた。部屋は、すっかり整理されていて、ニム・ウェールズが酷使していたタイプライターにはカバーがかぶせられていた。まもなく、私たちはニムのいない部屋を出た。少し離れて隣り合った小屋、ここでかつてはエドガー・スノーが原稿を書いていたのだが、すでに廃屋となっている。私はピー夕ーソンに握手を求めた。

 果たして彼は『アリランの歌』を読んだことがあるだろうか。おそらく、読んだことはないであろう。だが、そんなことはどうでもよかった。人間として、ニム・ウェールズが信頼している隣人と私は出会い、そして別れを告げているのだった。彼は、グローブのような手を差し出して力強い握手をかえしてきた。私は、今日の試合で彼のチームが勝ったのかどうか、それを聞くのを忘れていたのに後で気づいた。