運動を生ききった人の記録
──小林トミ著『「声なき声」をきけ──反戦市民運動の原点」
天野恵一
|
『「声なき声」をきけ 反戦市民運動の原点』を私は、今年の「私たちの戦争反対! 一万枚のハガキから」六・一五行動の準備の過程で手にした。この行動は、福富節男の、ハガキを個人的に出しあうといった個人個人の自発的意思に基づく反戦行動を六月一五日に、という提案を受けてつくりだされたものである。
今年の一月に亡くなっている著者・小林トミと私は、一度だけ親しく言葉をかわしたことがある。
「声なき声の会にかかわり、せまい範囲から世の中を見ると、日本人はいろいろな点で熱しやすく、さめやすいと戦争中によく聞かされていたが、それは本当かもしれないと思うようになった。とにかく、時の流れに敏感な人が多いことに気がつく。もっともそれが現代的な生き方らしく、今や時代にとりのこされないように必死に生きている人が多い。古い友だちにあうと、『まだ、やっているの』とおどろかれ、化石のようにみつめられると、私は黙ってにこにこすることにしている」。
彼女は、こう語っているのだが、おそらく九〇年代の国会への抗議行動(PKO法案から始まる一連の戦争法づくりへの「議員面会所」での集会など)で何度も顔を合わせるようになり、国会の帰りの地下鉄の駅で声をかけられたのである。「小林トミ」と名のられて、ああ、この人があの「声なき声」のトミさんか、と思いつつ、自分も名のったことをよく覚えている。ニコニコと笑いかけられたが、前提がないので何を話してよいかわからず、そのままエスカレーターに乗って別れた。少女のような笑顔がとても印象的な人だった。私は、テーマこそ違え、「まだ、やっているの」と化石のようにみつめられる小林と同類の人間であるから、彼女を「化石のように」見つめたつもりは、まったくなかったのであるが。
「声なき声」についても、一度だけ嫌味のための言葉として使用させていただいたという記憶がある。
本書の中で、鶴見俊輔とともに「声なき声の会」の活動をかなりの時期まで実質的に支えた「学者文化人」の一人として何度も登場している、高畠通敏の文章を批判した時である。
昭和天皇]デーの日(一九八九年一月八日)の高畠の『朝日新聞』の文章への批判である。私はこのように書きだしている。
──最初に見たとき、一瞬、まず眼をゴシゴシしてみたい気分になった。しばらくして、なにやらなさけなくなってきた。/『昭和の政治史の最大の逆説は、外見的には戦争の最高責任者であり指導者であったはずの昭和天皇が、心情的にはむしろ戦争の回避を望みつづけた平和主義者であったということであり、また現人神として国民に崇敬された天皇が、個人的には、立憲政治を信奉する近代的な生物学者であったということだろう』。『……天皇のいわば政治思想の輪郭を描き出すことは、それほど困難なことではない。それは一口にいえば、欧米諸国との国際協調を重んじ戦争をできるだけ避けようとした平和主義者、また憲法に定められた政府や国会などの諸機関を重んじ、独裁や天皇親政を嫌った立憲主義者のそれとして、基本的に考えることができるだろう』。高畠通敏の『朝日新聞』の一月八日(朝刊)──いわゆる]デー新聞──での文章(「『一身二生こと昭和天皇」)の主張である。/この間のマスメディアが天皇ヒロヒトについて操作的に垂れ流しているイメージをなぞったような主張である(軍人によって利用された悲劇の平和=人間天皇)というわけだ。──
私は非常にシャープな転向批判の仕事も残している市民運動の中を生きる政治学者として高名であった彼が、まったくマスコミ好みの言説を平然と生産しだしていることに正直、驚いたのである。
この反天皇利運動連絡会のニュース(『反天皇利運動60号、一九八九年三月一日発行)に書いた私の文章は、こう結ばれている。
──いつから高畠はこんな、──政治的『右』・『左』はとりあえずどうでもいい──知的誠実さがまるでない文章を平然と書けるようになってしまったのか。高畠はここで経済大国日本の現状にふんぞりかえったナショナリズムの論理の危険についてもふれている。しかし、象徴天皇の平和主義者ぶりのプロパガンダこそが、現代日本のナショナリズム・イデオロギーだということが、このとびぬけて『優秀な』政治学者にはもう理解できなくなってしまったのだろうか。──(『マスコミじかけの天皇制』インパクト出版会、所収)。
この文章のタイトルが「ヒロヒトが『平和主義者』なわけがない」 で、サブタイトルが「声なき声」であった。
この文章の収められたニュースが発送されると、すぐ、小林の本の中で、「べ平連」の事務局長としての活躍が紹介されている吉川勇一(当時は、もう「市民の意見30の会・東京」で活動していた)から手紙(ハガキだったか?)が事務所に届けられ、そこには私の意見に賛成すると書かれていた。こんなことは、あまり例がないのでよく覚えている。おそらく活動を共にした時のある吉川は、高畠の文章に驚き、私以上に残念という気持が強かったのだろう。
一九八二年の会の運営(解散) をめぐる学者グループのやり取りを小林は、以下のようにレポートしている。
「三月末に母が急病になり、救急車で病院に運ばれ、日夜、病院に通った。交代で家に帰っていると、電話のベルがなった。電話は五十嵐さんからで 『声なき声を長く続けてきたけど、このあたりで一時凍結したほうがいいということになったのです』という。みんな疲れて限界にきているし、例会に出てくる人も少なくなった。このまま消えていくよりは、凍結したほうがよい、という。/私は『高畠さんの考えは』と聞いた。すると、高畠さんは、二十年目で区切りをつけたかったというのだ。幕を閉じるにあたって相談会を開きたいという。今のような政治状況だからこそ、『声なき声をやらなければ』と思う。なのに『幕を閉じる』なんて残念だ。私にとって、声なき声の会は自分の生き方を正す上で大きな存在だった。幸い、母の病気は少しよくなった。声なき声の存続問題を話したら「みんな疲れたんだろうから、お前が引き受けた方がいいよ、早くなおって留守番をしてやりたい」といってくれた。母はやはり声なき声のメンバーなんだと心強く思う」。
相談会での「アメリカに二年ほど行く予定」だという五十嵐暁郎の報告は、こうである。
「『高畠さんと話したんだけど、今、声なき声の会には二つの方向があるんじゃあないか。一つは活動の内容や方向によって、それぞれ“声なき声”を名のろうというもの。いま一つは、トミさんが六・一五と 『たより』をやるようだったら声なき声の看板と会計、それといっさいのものをトミさんに渡すというものです。結論からいえば、声なき声の会の事務的なものをいっさいトミさんに渡す。
僕も市民運動をやっているけど、学者稼業だし、しかも政治学者でもあるし、これはいいようで悪い。市民運動、政治運動を観察する立場にあるものが、市民運動の事務的なものを十年間も引き受けているのはおかしいじゃないか。それで市民運動がなりたっているのはおかしいではないか。今の若い人と一緒に安保の運動をやっていくのはむずかしい。一時期、若い人が六〇年安保を歴史的な事件として『たより』をやっていたけど、それでは運動にはならない。我々はまた新しい方向を模索した方がいいんじゃあないか。このあたりで新しい運動をおこす余力をのこして、ピリオドをうちたい。/新しい旗をつくつたのは、何かのとき、もう一度、運動をやる可能性を残しておきたいと思ったからである。だけど、声なき声をこのまま続けるのはよくない。中味がないのに六〇年以来の市民運動をして、ずるずると看板をあげて形骸化するのはよくない。このあたりで看板をおろすのがよいのではないかご。
(学者が運動の事務を担うのは、まったく、おかしい事ではない、「中味がない」と思うのならインテリ稼業の自分たちこそが中味をつくるように努力すべきであろうに)と、会の具体的状況などまったく知らない一読者の私が、思わず無責任に声をあげそうになってしまったくだりである。
小林は、自分のこの時の発言について、こう書いている。
「私は長い間、これが市民運動だなんて思ってやってきたのではない。二度と戦争を起こしてはいけないので、今、自分はこれをしなければと思ってやってきたわけです。学 者ではないから、これが市民運動などといって教えみちびくような考えをもつこともないわけです。/ただ、今のような政治状況の中で声なき声の会が幕を閉じるのはよくない。右傾化の中、声なき声の会のような運動は必要だと思います。私が声なき声の会をやることになっても限界があります。私としては、六・一五だけには集まりたい。『たより』も年に一回ぐらい出す。何かことあれば三角の小旗をもってデモにいく。私としては、人に大きな影響を与えようかという気持ちではなく、自分でやろうと思ったとき運動するわけです。自分にとって、六・一五に集まることは、自分の人生にとって重要な意味をもっているので、やめるのはしのびない。/大げさなことはできないが、集まるのは十人ぐらいでよい。このような状態で引き受けるのですから、がんばりたいと思っている。会にエネルギーがなくなったといわれるけど、これからは自分の原点を忘れないために続けていきたい。まだ、余力をのこしているうちにやめようとするのは納得できない。余力がなくなって消えていく方を私は選びたい」。
ここには小林の運動に対する基本的なスタンスが鮮明に表現されている。私もこの精神に深く共感する。
高畠が運動とまったく切れてしまい、「学者稼業」一本になってしまったことと、あの]デーの時の、マス・メディアのインチキな主張を学術的な表現で言いなおしただけの、学者としてもいいかげんな論理の発表との間には、それなりの因果関係があるように私には思える。運動の中には、他人をでなく自分を「教えみちびく」ものがあるのだ。
非常に大きな運動となった「べ平連」をうみだす母体と「声なき声の会」はなったわけであるが、ベトナム反戦運動がもりあがりつつあったその時代に小林は、会の運営がピンチになりこういう気持に落ちこんでいる。
「私はその夜、ねむれなかった。声なき声の会にかかわった頃、みんなやめてしまい、最後に一人だけになってしまう夢をよくみたが、それが現実になったような気がした」。
こういった、過剰な責任感からくる孤立感は、体験的に私にもよく理解できる。すべて持ち出しの一人一人の自発性以外にまったくたよることをしまいという原則をたてた運動が、宿命的にかかえこませる〈孤独〉である。
「たより」に載った個人のメッセージが、この本でも大量に紹介されているが、「声なき声の会」は個人の声を持続的に交流させる運動であったことが、そこにもよく示されている。
「『そうだ。これからは誰でも参加できるデモをしなければ』。私たちの意見は一つにまとまった。まず、六月四日の安保反対統一行動日に歩道の人たちにデモ参加を呼びかけるプラカードをつくろうということになり」──こんな具合に六〇年安保反対行動の中で活動は始まった。デモの中で人々が出会い連帯感が広がっていくという体験のくりかえしの中で、会がつくられていく。スタートはこうだ。六月二日のデモの時、横幕の「横に空間ができたので、岸首相の言葉を逆手にとって利用することにした。岸首相が『私は「声なき声」にも耳を傾けなければならないと思う。いまあるのは「声ある声」だけだ』と述べたので『声なき声の会』とすることにした。それに『やはり誰デモ入れると加えたほうがいい』ということになり……」。
会の活動の持続をつくりだす決定的な体験となる六月一五日の件については、このように書かれている。
「『市民の皆さんいっしょに歩きましょう。五分でも百米でもいっしょに歩きましょう』昼間、国会請願所の前で、キリスト者のグループや新劇の人たちのデモに右翼がなぐりこみ、怪我人が多く出たという情報が伝わった。それでも、『市民の皆さん、勇気をだそう』と叫びながら、国会に向かう。/坂の上から、学生たちの長いデモ隊が無言で走り去る。『全学連かな』と誰かがいうと、『全学連反主流派のデモだな』という声がする。国会に近づくと、警官の姿が多く、パトカーや救急車の動きがあわただしく、不穏な空気がただよっている。腕章をつけた人が、立ち止まらずに前に進むようにと誘導している。首相官邸の前までくると、高畠さんと判沢弘さんが、ちょうちんをもって追いかけてきた。『声なき声の会』と書いた大きなちょうちんに火を灯し、参加者からカンパを集め、小さなちょうちんを配った。/その時、学生が駆けてきて、『このまま学生を見守ってほしい』と呼びかける。私たちも不穏な空気を見て、状況を知りたいと話をきく。学生は、デモ隊が右翼に襲われたといい、警官は見ているだけだったともいった。また、南通用門でデモ隊が警官隊に襲われ、多くの怪我人が出て、救急車で運ばれている、といった。血のにじんだ包帯をまいた学生もいる。病院に運ばれたが傷が軽く、国会に戻ったのだという。/『どうか、市民の皆さん南通用門の前にきて抗議をして下さい』/『警官隊の暴力です。怪我人も多く、学生が二、三人殺されたんです。みなさん、ここにとどまって抗議して下さい』と訴えた。/血のにじんだ包帯を見ながら、身の引きしまる思いがする。しかし、デモ参加者には子どもづれが多い。娘さんに手をひかれた年輩の婦人もいる。不安を感じるらしく、泣き出す子どももいる。私は、どうしたらよいかを考える。南通用門を見ると、暗くて不穏な感じがする。/デモのリーダーをしていた大野力さんは『我々のデモは年寄りから子どもまでいるので、ここにとどまらずに、ここで聞いた話や、この事態を、職場や近所の人たちに伝える立場をとろう』といった。学生はとどまるように呼びかけたが、『声なき声』のデモは、そのまま解散地へ向かった。/東京駅の八重洲口についたのは夜の十時。電光ニュースで全学連主流派が国会構内に突入、警官隊との衝突で女子学生一人が死亡したことを知った。国会を離れたことに悔いが残る。みんなで黙祷をして解散。再び国会に向かう人が何人もいる。私は電車がなくなるので帰りかけると……」。
小林たちに、毎年六・一五集会を持たせ、死んだ女子学生の追悼を持続させたのは、この時の「見守る」ことすらできなかったという「悔い」であり「負い目」の意識であったのだろう。
この権力の暴力と直接ぶつかっている人々を「見守る」ことの大切さは、本書で、いろいろな局面でくりかえし強調されている。
そして、母の死に直面した時、小林は、こう書いている。
「母は声なき声をやっている私を心配しながら応援してくれた。デモで帰りが遅くなると、いつも表通りに出てきて私をじっと待っていた。広い太った顔で母だとわかる。家に何度か私服警官の訪問があった。他の市民団体の人が電話でどなり込んできたこともあった。それらの対応で、母にはいろいろ迷惑をかけた。私が声なき声にかかわってこれたのは、母に助けられた部分が大きい。私を見守ってくれた母は、もういない」。
母親についての個人的なエピソードは、この本の中には、まったく書かれていないが、彼女(母)の存在の大きさは、よく理解できるのだ。
私は、今年の「一万枚のハガキ」六月行動の中で、韓国の反基地運動への連帯のアッピールの原案を書く役割をふりあてられ、六〇年安保闘争の時の六月一五日の右翼や警官の暴力が、どういうものであったかを具体的に調べる必要を感じ、『世界』の一九六〇年の八月号を本棚から引っばりだし読んでみた。
特集名は「主権者は国民である ──安保条約をめぐる国民運動と今後の課題」で、写真も豊富に収められており、暴行の被害者の証言がいくつも収められている。右翼のなぐりこみを見て見ぬふりをしている警察官が国会構内に入った素手の学生たちを警棒と靴でメッタ打ちにし、手錠をかけたまま引きずりまわす、すさまじい暴行への怒りの抗議文が、ならんでいる。
この暴行の渦の中で女子学生(樺美智子)は命を落としたのだ。一つだけ引こう。
東大の四年生(当時)内藤国夫の「何が樺さんを殺したのか」は、こう語っている。
「トラックが一台やっと門の外に引っ張り出された。僕達は歓声をあげた。これで入れると思ったのだ。警察官が少し下がったのにつれて百名程の学生が、スクラムも整わぬ中に国会構内に入った。警官はいつもの様にこの百名程の学生を僕達から遮断した。たまたまその中の学生は全てたたきのめされ逮捕されるのだ。一台の車がどいただけでは入口は狭すぎ、しかも倒れた門柱が邪魔をしていた。後の方にいる学生は何が起こっているのかも解らず、騒ぎ、押し合い、そしてホースの水を浴びていた。前の方の百名余の学生は我我の方に帰ることも出来ずに警官の警棒と靴とで、めった打ちにあっていた。何人かの学生が血をふいて泥の上にぶったおれた。そして警官に足げにされていた。僕達は見ていられなくなって、又もやスクラムも整わぬ中に飛び出していった。又々百名位で遮断され、そしてめった打ちにあった。何人かの学生がドロマミレになってのたうち、暫らくして動かなくなった。樺さんもその中の一人だったのだ」。
暴行の現場を具体的に確認したのは、次のような主張を眼にしたからでもあった。
「六〇年安保の時、全学連の国会突入で樺美智子が死んでいますけど、西部邁さんは、『いや、あれは多分、恐怖にかられて逃げまどった我々が踏みつぶしてしまった』と言っています。それも権力にやられたということになる」。
「『虐殺』というね。左翼はいかんな、そういうところでプロパガンダをやるというのは」。
『昭和の劇 映画脚本家笠原和夫』(太田出版、二〇〇一年)の中の二人のインタビュアー(荒井晴彦とすが秀美)のやりとりである。
警官に遮断され包囲され、メッタ打ちにされた学生たちが逃げまどったのは事実であろう。しかし、この局面を警察官の集中的な暴行という決定的な要素を排除して、こんなふうに論じてみせるのは、インチキがすぎよう。この内藤の「何が樺さんを殺したか」でも、このように書かれている。
「雨の降る中で、僕達は四時半頃迄、京大の北小路君や東大の西部君の話を聞いていた」。「全学連」(主流派)のリーダーの一人であった西部が、この場所にいたことはまちがいあるまい。しかし彼は、今はすでに殴りこんだ右翼のような天皇主義者になっており、日本の核武装の必要を説く国家主義者として発言している人物である。殴られた学生の位置から殴りかかる権力の位置に自分の身をうつしてしまっているのだ。だから、こんな証言ができるのである。それを、あたりまえの事実のように引いてみせる両者の気がしれない(死者をだすような戦術を採用したリーダーとしての負い目が言わせているとすれば別の話であるが、そうではあるまい)。
歴史はつくりかえられる、時にはその歴史を担った当事者たちによっても。だから私たちは忘れないことはもとより、事実を歴史的に直視する作業をくりかえし持続しなければならないのだ。
小林の「六・一五」行動を毎年、持続しようという思いは、そういったものだったのだろうとあらためて感じる。
「六・一五」を見る国会突入闘争のアジテーターの西部のまなざしは、まったく逆転してしまっているが、小林の「悔い」の気持に支えられたまなざしは、六〇年の時そのままであり続けている。
私は、本書によって、実にいろいろな事を想起させられた。突出した劇的な行動の記録ではないし、高度な論理的展開や分析があるわけでもないこの本は、時間の流れにそって淡々と活動の記録を収めているだけのように見えるが、運動を生ききった者でなければ残せない重い運動の証言集である。
私は、小林トミの追悼をもかねた今年の「声なき声の会」の六月一五日の集まりに、はじめて参加してみたい気持ちになったが、やはり自分たちの行動がいそがしくて、無理であった。
(小林トミ著、岩垂弘編、同時代社、二〇〇三年刊)
〔天野恵一(あまの・やすかず) 反天皇制運動連絡会〕
季刊 「運動〈経験〉」 10号 2003年11月
|
「声なき声」をきけ 反戦市民運動の原点 小林トミ著 岩垂 弘 編 6・2 刊四六判222頁本体1900円 同時代杜 【図書新聞 2003年9月13日(土)】
|
巻き返しの
「憂慮し、志ある市民」
小林トミの活動の記録
小田 実 (作家)
「声なき声の会」の運動の記録であるとともに彼女の人生の記録
私はかつて『世直しの倫理と論理』(岩波新書・一九七三)と題した本を書き、市民はいつも力弱くて、それが何んであれ、強い長いものに巻かれる、しかし、巻かれながら巻き返す、うまく行くかどうか判らないがそう懸命に努力する人間だと述べた。小林トミのこの本を読んでいると、彼女はまさにそうした「市民」であったと思う。
《concemed citizen》というひところはやった英語の言い方がある。《citizen》は「市民」だが、《concemed》はどう訳すか。「憂慮する」がふつの訳語だが、私の解釈では、ただ心配してオロオロ、グチをこぼしているのではなくて、問題解決にたちむかう志をもつ、実際その志を実行に移す──それがあっての《concerned》だ。まとめて言って、「憂慮し、志ある市民」──このことばも小林トミの一生にピッタリする。
彼女がこうした市民として、強い長いものを巻き返す活動を始めたのは一九六〇年、新安保条約強行採決のあとのことだから、もう四十年以上もまえのことだ。反対運動の大きな盛り上りのなかで、当時の岸首相が言った「私は『声なき声』にも耳を傾けなくてはならないと思う。いまあるのは『声ある声』だけだ」を逆手にとって、小林は他の仲間とともに「声なき声」のプラカードをつくり、「五十メートルでも一〇〇メートルでも歩こう」「みなさん一緒に歩きましょう」とのプラカードとともにかかげて歩いたことから、「声なき声の会」は始まり、彼女はそのキモイリとして、昨年十月、七十二歳まで死ぬまで、巻き返しの「憂慮し、志ある市民」の活動をつづけた。
私がこう書いていて、まるで自分のことを書いているような気がして来るのは、彼女が活動を始めた五年後、私もまったく似たような過程で、自分なりのベトナム反戦運動への参加を始めたからだ。私が参加したのは、私が鶴見俊輔、高畑通敏その他の人といっしょにキモイリとなって一九六五年四月に始めた「べ平連」(「ベトナムに平和を!」市民連合)の運動を通じての参加だが、この運動も、ついに、巻き返しの「憂慮し、志ある市民」の運動として始まり、九年半つづいて一九七四年初めに解散するまで、自からが本質的にそうした市民運動としてあった。面白いと思うのは、私といっしょにキモイリになって始めた鶴見、高畠両氏はともに「声なき声の会」の中心だったし、当の小林トミも「べ平連」の最初の集会、デモ行進に「声なき声の会」のプラカードをかかげ、仲間とともに来ていて、私も会っていたにもかかわらず、彼らは彼らで、「これが『声なき声の会』の疑似です」というようなことは一切言わなかったし、私もそのころには彼らのことはほとんど知っていなかったから、「べ平連」がやり出したことは「声なき声の会」がそれまでやって来たこととまったく無関係であったはずだったが、多くの点で、自然と重なり合ったことだ。彼らのことは一切知らないままで、私は私で、街行く人にいっしょにデモに入らないかと叫び、どこかに入る人はこのデモに入れとプラカードをかかげて歩き、そうやって来た人がそのあと自ら運動を形成する──というようなことは、いくらでもあった。
しかし、こうしたあくまで個人の自発自決に依拠した市民運動ははじめはいいが、そのうち人が来なくなっていつのまにか消えてしまうものだ。「べ平連」も「声なき声の会」も、同じ定めをもった、このこともこの本はよくあきらかにしてくれている。その定めをいかに切り抜けたか、切り抜けられなかったか。ここであらためて言っておくと、学生は学生運動から卒業することで、運動からも卒業できる。労働組合の運動も、会社、工場をやめれば、やめることができる。しかし、市民運動は、本質的には一生モノの運動だ。死ぬまでつづく。小林はまさに死ぬまで、彼女の巻き返しの「憂慮し、志ある市民」の運動をつづけた。この彼女の本は、「声なき声の会」の運動の記録であるとともその彼女の重い人生の記録としてある。
(作家)
|
「声なき声」をきけ反戦市民運動の原点
(同時代社・1900円)
|
ことし1月3日、東京は雪。朝刊をひらくと小林トミさんの訃報(ふほう)があった。心身が一気に引きしまった。
1930年生まれの戦争世代。72年の生涯のうち、1960年以降、30歳からの42年にわたる歳月を無党無派の反戦市民運動に注ぎこんだ。安保反対運動を指して、ときの岸信介首相がいまあるのは「声ある声だけだ」と言ったのを逆手にとって「声なき声の会」とした。学者、主婦、ジャーナリストが集った。本書は会の生みの親トミさんがのこした履歴書だ。たった二人で歩きはじめた最初のデモ、運動のなかで伴侶とめぐりあう鶴見俊輔さん、べ平連誕生の母胎になる経緯、なれなれしい私服警官の登場、誘った仲間の失職や逮捕に心痛する日々。ドラマがドラマにつながってゆく。
絵の教師(トミさんは東京芸大出身)で老母との暮らしを立て、誰にもできる抵抗の生
き方を育てた。草の根民主主義をいつくしむ子守唄が聞こえてくる。
増田れい子(エッセイスト)
(朝日新聞 2003年8月3日 日曜日 読書欄)
|
暮らしと地続きの「誰でもできる非戦」
評者=冨板敦(とみいた あつし) フリーライター
『「声なき声」をきけ』
小林トミ=著 岩垂弘=編 同時代社
1900円(税別)lSBN4-88683-501-5
|
一つの出会いが人を変える。彼女の場合は唐辛子売りのおやじだった。
戦中、千葉の浦安で育った小林トミは、自伝的小説『貝がらの町』思想の科学社・一九八〇年)に書く。軍国少女だった彼女は、唐辛子売りが「新聞にかいてあるのは、みんなうそ」と言うのを聞き、怒りを覚える。「神国日本にそんなわけがない。日本は負けるわけがない」。
ところが、四五年三月、東京大空襲で恩師と友人を失い、戦争に対する嫌悪感を持つ。唐辛子売りのおやじら少数派の正しさを知り、平たく人を見る目を得た。そして、大きな流れにまきこまれやすい“庶民”としての自覚を持った。この三つを、彼女は終生手放さない。
六〇年、岸信介が日米安保を強行採決したことに危機感を覚え、友人と二人で「誰デモ入れる声なき声の会」の横断幕を掲げ、国会へ歩く。 本書は、今年一月に亡くなった「声なき声の会」世話人が残した手記だ。亡くなるまで続けた「声なき声の会」、とくに毎年行なった六月一五日の集会と樺美智子の冥福を祈る国会前献花などが丹念に記されている。
党派などの勇ましい反戦運動が高まると、小林の“静かな”反戦行動は、なまぬるいと批判される。「時々、心細くなる」「みんなにあきれられるほど臆病ものとしての自分」……直接的な表現から心の揺らぎが伝わる。
反戦連動が退潮すると、「日本人は熱しやすくさめやすいといわれる。執念深い人問になろう」と書いた。
定職につかず、美術講師などで収入を得、日々の生活を大切にしなければ活動は続けられないことを身に泌みて感じていた彼女がかみしめて綴る言葉は、どこまでも穏やかだ。「二度と戦争は起こしたくない」信念を持ち、「見栄をはらずに自分のできる範囲でやろう」と、彼女は四十余年の息の長い活動を続けた。暮らしと地続きの“誰でもできる非戦”を考える糸口が、私たちの前に置かれた。
(週刊 金曜日 2003年7月4日 No.466) |
「声なき声の会」小林さんの遺稿集出版
|
ことし1月、72歳で他界した反戦市民グループ「声なき声の会」の代表世話人だった小林トミさんの遺稿集「『声なき声』をきけ 反戦市民運動の原点」(同時代社)が出版された。 書きためていた1240枚(1枚400字)の原稿を、長く親交のあったジャーナリストの岩垂弘さん(68)が、まとめた。91年、湾岸戦争が始まったさい、「戦争には正義の戦争とか聖戦はない」としるし、「海外派兵を論じる人は、誰かに命令することを考えている人で、戦争で犠牲になるのはいつも弱い立場の人である」などとも記している。 60年の安保闘争のさいに生まれた「声なき声の会」は、この闘争で犠牲になった東大生・樺美智子さんの死を悼んで、命日に当たる6月15日に国会前に花束をささげてきた。ことしも同じ15日夕、献花が行われる。
|
| (朝日新聞 2003年6月13日 金曜日 朝刊 第2社会面 13版) |
|
|