| ●本書中の対談より(「個人と集団の間」の一部) ―丸山 そういうものを貫き得たということは、戦前の雰囲気を考えますと、むしろ私なんか不思議な気がするのです。もっと非インテリ的なタイプ、別に実質的に非知性的という意味じゃなくて、人柄として労働者的な感じの、たとえば神山茂夫氏というような感じの人なら、これはまたこれで頑張れるというのが、まだ何となくわかるのですが……。今の学生は、どうして戦前のコミュニストがあんなに滔々と転向したのかと、そのほうが不思議で、内在的に理解しにくい。しかし私などは、善悪の批判を別とすれば、転向する方がナチュラルで、とくにインテリの非転向というほうが、むしろ不思議な気がする。どこにその秘密があったのか……。 ―古在 話がちょっと取ってつけたようになりますが、やはり自然科学の理論というものはみなどこか「仮説的なもの」をもっているわけですね。そして、新しい実験や観察の結果とでっくわして、これらと食い違えば、むしろ理論のほうを訂正するという場合が多い。観察や実験そのものが誤っていたということもないことはないけれども、一般に科学というものはみんなそういうものだと思いますね。科学に対する確信というものは、そういうものまでを含めての確信でなければ、科学的確信とは言えないと思います。それはいささかもわれわれの実際行動にブレーキをかけるということにはならないと思うのです。そういうことは、なかなか若い人にはわかりにくいでしょうが。 それから、よくこういわれますね。なんか戦前は滅私奉公で、左翼の運動にもやはり滅私奉公の形があった。「私」というものを棚上げにした形。公けというものを国家権力とするか、支配階級に対する闘争とするかは別として、かりにいま滅私奉公といったのですけれども、私は、あまり自分にはピンとこないのです。というのは、やはり学問をとにかく志した以上、学問といえるかどうか知らないけれど、とにかくも理論研究というものを志した以上、理論こそは「私」なのでしてね。理論を大事にするということは、僕の場合には「私」を大事にすることなので、それをいい加減になんかするということは、当然これは「私」を台なしにし、メチャメチャにすることになるのではないかな。だから、やはり自分として「私」を大切にしたのではないかと思うのですね。要するに、自分を大事にするということ……。 ●本書中の脚註より 本書の「解説」にも、一九三九年以降では、「『転向調書』なしの非転向は在り得なくなっていた」という藤田省三氏の言葉を引用し、古在の「転向」が、「相互信頼と自信に満ちた本式の偽装転向」の例だと書いておいた。古在の「転向」が「偽装転向」であることを、藤田氏は別の場所でも繰り返して説明しているので、ここでは、その発言を注として引用しておく。 「吉野源三郎さんに『ぼくが知ってる戦前の左翼について一流、二流、三流を挙げてくれ』と言ったら、『一流は古在(由重)』と言った。『どうしてですか』と聞いたら、監獄で頑張っているから『そんなことをやっていたら体を壊して死んじゃうから、調書を書いて出てこい』と伝えて、それで彼は調書を書いて出てきた。だから偽装転向です。その時、吉野さんが迎えに行ったら、『やあ』と言って、きのう別れたかのごとく平然としている。こういうのを一流の人物と言う、と」(「戦後精神史序説・第八回・『歴史を書くということ』」(藤田・岡本対談)『世界』一九九八年一〇月号) |