ケース−アー、髪の毛が抜けていく
▼森田寛和(52歳)・エンジニア

 森田さんの直接の訴えは、うつっぽいものではありませんでした。むしろ、皮膚科の領域の問題です。
 「なにもわざわざ専門外の問題を持ち込まなくても」と思うのですが、森田さんのごく近所に、私のクリニックに長くかかっている女性の患者さんがいて、森田さんの話を聞いて紹介してきたのです。
 五十二歳の男性には、どのくらいの頭の毛の量があれば標準なのか、私は専門外なのでよくわかりませんが、森田さんの初対面の印象は、髪が白く薄いために、かなり年齢より老けて見えました。背が高く静かな物腰の品のいい紳士という印象です。
 「先生は初対面なのでおわかりにならないでしょうが、一年前にくらべて髪が細くなっています。抜け始めた頃の毛は、もっと太く黒かったんです。今は抜けた毛が白く細くなっています。円形脱毛症といわれた頃は、丸く抜けた部分が気になっていたんですが、最近は全体に薄くなり、地肌が透けて見えるようになりましたから、明らかに程度の差ではなく、質的な変化なのです。大量に抜け始めたのは昨年の秋からです。秋なので抜け毛が多いのかと思っていたら、洗髪の際に洗面器いっぱいに浮くほどになって、ギョッとしました。毎朝髪をとかすと、やはりバサッと抜けます。どんどん抜けてそのあと生えてくるのは細い白髪なので、このように薄くなってしまったのです。皮膚科では『年齢のためで抵抗のしようがない』といって、前と同じ薬しか出してくれません。薬が効いているかどうか、はっきりいって疑問です」

 漢方薬の治療を考える場合には、患者さん本人が一番問題にしていること以外に問題がないかどうかが、重要なカギになります。皮膚科領域の治療の場合も、本人の体調、自覚症状を細かくチェックしてみて、何か問題があれば、そこを改善することによって、からだ全体のバランスをよくして、皮膚の問題が解決していくかどうかを見るのです。
 ですから、「この病気には、この漢方薬」という、直線的なあてはめ方はできません。マニュアルがあって、その通りに薬を使っていれば治るというのならいいのですが、一人一人について、いろいろな方面から眺めて薬を考えなければなりません。とても時間と手間がかかります。
 本来は、皮膚科専門医という医者たちが、難しい病気なら治すべきなのですが、実際には、通りいっぺんのマニュアル通りに内服薬を出して、副腎皮質ホルモン剤の軟膏などはチューブのままドサッと使い、患者はそのうち見限って他の医者に移っているというのが現実なのです。長く治りにくくなっている皮膚疾患に対して、皮膚科専門医というからには、本気になって漢方薬も使って治す努力をしてほしいといつも思います。
 皮膚科の病気を考えると、いつもぐちっぽくなります。そのくらいいつも頭痛のたねなのです。とくに、皮膚の症状がほとんどすべてで、他に困った自覚症状のない場合などは、漢方薬を考えるとっかかりがありません。目の前の患者さんには気の毒なので口には出しませんが、おなかの中では「皮膚科以外の問題がないから、純粋に皮膚科の病気だ。私が苦労して治す筋合いじゃない」と考えて、ムカムカしています。でも、やはり聞き苦しいぐちに聞こえるんでしょうね。

 森田さんの場合は、抜け毛以外の自覚症状として、ねつきが悪い、仕事中イライラする、疲れると口をきくのがおっくうになる、アルコールで下痢しやすいなどがありました。
 森田さんはエンジニアですが、大手の家電メーカーに勤めて二十五年以上たち、部下が三〇〇人以上いる「技術系中間管理職」という立場です。会社への通勤はラッシュを避けるために、毎朝六時に家を出て、帰宅は夜九時頃という生活です、
 森田さんは話していると、とくにうつっぽい感じはしませんが、病歴や会社の仕事、システムなどを説明する際に、とても細かく行き届いていて、真面目できちんとした印象を受けます。
 「管理職は自分でも向いていないと思いますが、年齢からいってやむを得ないと思っています。人間関係で問題があるわけではありません。皮膚科で円形脱毛症は精神的なストレスからくるといわれましたが、仕事上のものは逃げようがありません。小さなところなら、自分一人でやってしまえばすみますが、この年齢になって平社員で移動できるわけがありません。今の仕事を続けるしかないと思っています」
 アルコールでよく下痢するのは、宴会が続いた時だそうです。男性によくある神経性下痢ではなさそうでした。
 森田さんの希望で一通りの検査もしましたが、コレステロールが少し高いのと、血圧が高めなこと以外は何も異常はありませんでした。
 おなかを触ってみると、年齢の割りには皮下脂肪が少なく、筋肉はガッチリついています。おへその左側から上にかけて動脈の拍動がありました。みぞおちと右脇腹にすこし固い部分があり、そこを押すとすこし苦しいといいます。
 今まで西洋医学的には、薬をのんでいて効かなかったのですから、私としては漢方薬を考えるしかありません。円形脱毛症に桂枝加竜骨牡礪湯を使って有効な場合がありますから、ガッチリした男性ですし、腹証も合いそうなので、柴胡加竜骨牡礪湯を処方してみることにしました。
 抜け毛以外に、ねつきが悪いなどの症状がありますし、大勢の部下を抱えた中間管理職という立場は、口でいわないだけで、たくさんの苦労があるのだろうと思ったのも、柴胡加竜骨牡礪湯を処方した理由です。

 柴胡加竜骨牡礪湯を初めてのんだ二週間の反応は、正直なところ、よくわかりませんでした。ちょうど宴会の重なる時期だったために、体調を崩したのかもしれません。
 「薬のせいで下痢をしたのではないと思いますが、忘年会が続いて、この前の診察の日からで五回ありました。仕事の延長みたいなものです。大小ありますが、一日おきくらいにかなり酒ものみましたし、疲れますね。大量にのんだ翌日は下痢していて、その翌日は宴会というペースでした。こんな具合でしたから、もうすこし薬は続けてみないとわからないと思うのですが」
 年末年始はかなり宴会が続きました。その間、平胃散と五苓散を下痢した時にのんでみたり、柴胡桂枝湯に変更してみたり、下痢した時に半夏瀉心湯を加えたりする微調整をしてみていました。
 宴会の数が減りだしたら、柴胡加竜骨牡礪湯単独で、からだ全体が落ち着き、イライラしなくなることがはっきりしてきました。そして、二カ月ほどたった頃、新しい黒い毛が生え始めました。
 「このところ抜け毛が確実に減りました。生えてくる毛が硬くなってきたのがわかります。そのせいかイライラしなくなりましたし、よく効いていると思います」

 森田さんとは別の時間に奥さんが面会に来たことがありました。話をしてみて、ア然としました。
 「主人はもともと神経質で、身なりにも気をつける方でした。きちんと着ると若く見えるのが自慢でしたから、今度のことはショックだったようです。あんなにハゲてしまって、二十歳も老けこんだみたいです。みっともなくて一緒に歩けません。おじいさんと歩くなんてゾーッとしますでしょ。治るんでしょうか。原因はなんなのでしょうか」

 日本人は欧米にくらべて、男性のハゲを気にしすぎるといわれています。欧米の映画を見ると、てっぺんが丸くハゲている人が大勢登場します。役柄からいって三十代かと考えられるのに、耳たぶの上五センチくらいにぐるっと毛が残っているだけというタイプのはげ方です。たしかに主役にはなっていませんが、堂々と映画に登場するのですから、欧米では日本より率も高く、市民権も得ているのだろうと思います。髪のたくさんある意地悪より、ハゲた気のいい親切な人の方がいいと、私は思うのですが。
 森田さんの奥さんには、精神的なストレスによる円形脱毛症の一種なのだから、妻が「みっともない」と思っていることも大きなストレスを与えていることになる、会社の仕事も大変なんだし、同情の目で見ることが長年連れそった夫婦なら、まずやるべきことなのではないかと話しました。この奥さんの亭主の髪があろうがなかろうが、私はどうでもいいのですが、森田さんを私が治療している以上、大切な人なのです。でも、森田さんの奥さんが、話を理解したかどうかはわかりません。
 それにしても、白髪としわにこだわる女性はお化粧でごまかしますが、男性の髪の毛の量はごまかしにくいから大変なのかと、その時、妙に納得してしまいました。
 そんなこんながありながらも、森田さんの髪は順調に生えかわり、二カ月もすると相当に様がわりしたのがはっきりしました。その後は柴胡加竜骨牡礪湯をずっと一日二回くらいのペースでのみ続け、一年半ほどでほぼ完全に治りました。
 森田さんの観察によると、悪かったのは冬で、最低気温が五度より下がると、抜け毛が多くなったそうです。体調が悪く、血圧が上がりそうな気配の時には、柴胡加竜骨牡礪湯を一日三回に増やし、早めに休息をとるようにしていると、無事なのだそうです。